急変 [雑感]
前記事で3・11の震災のことを書きました、、そして兄のことにも触れました。
その日の夕方でした。
職場にいる夫からが掛かってきました。
「今埼玉の〇〇恵さん(私の姉)から私にがあって〇〇さんの様態が
急変した、でもあなたには知らせないでと言われたけどそうもいかないだろうと
思ったのでをした」のだと。
これから二人で病院に駆けつけようというでした。
それからあわてて家の中を見まわってバックに必要な荷物を詰めて
夫と待ち合わせをした品川へと・・・家を出ました。
大事な薬とお金とちょっとの着替えを入れて出ましたがなにを入れたらよいのか
動揺して頭が回りませんでした。
少し体調が悪かったのですがそんなこと言ってられません。
電車に乗って~姉に「これから行きます」とメールを入れたら
折り返し「少し前に亡くなった」のメールが入って。
姉たちも間に合わなかったそうです。
今日はとりあえず来なくていいかもと言われましたがこのまま行くことにしました。
たまたま退社時間後の時間帯です、品川~大変な混み方でした。
夫と連れ立って京浜東北、高崎線と乗り継いで行きましたが途中から
立っていられないほど具合が悪くなってしまいました。
心労、ストレスが体にいかに影響を及ぼすか痛感していましたがとにかく
病院へ行くことだけで必死でした。
途中何度もメールをしあい「病院を8時に出発することになった」というメールに間に合うかと
ヒヤヒヤしながら…下車駅に着いたのが7時40分でした。
駅には姉と姪っ子が車で迎えに来てくれたので何とか間に合いました。
まだ病室のベッドに横たわっていた兄の顔を見るなり・・・号泣してしまいました。
既に姉や義兄たちが集まっていて「間に合ってよかったね」と声をかけてもらいました。
そのまま霊柩車で斎場へ向かうことになり、3台の車列で・・・
途中、義姉から昨日は帰りにはまた明日ねって元気に別れたのよ、今日もお寿司を少し食べて
でもそれが最後で急変して、こんなに急にとは思っていなかったと聞きました。
そんなことで義姉もどうしてよいか分からないと・・・とりあえず地元の姉が積立をしていた
斎場へを入れ受け入れてもらったそうです。
斎場では遅いので細かいことは翌朝話し合うことになりいったん家族は帰ることに。
それぞれ姉から家に泊まるようにと誘いもありましたが私たち夫婦は墓参の時いつも宿泊
しているホテルに予約を入れましたので、遅い夕食を食べてから姪の車で
熊谷のホテルまで乗せてもらい落ち着いたのが12時前でした。
お風呂に入ってベッドに入っても気持ちが高ぶっていて中々寝付けません。
自己免疫疾疾患はストレスを感じると症状が悪化してしまうのです。
動悸が凄いのは興奮しているからだと思いながらとにかく体調が悪くなって全身が
いつもの様子ではなくなり、もしかしたら病院のお世話になってしまうのかと心配でした。
こんな時のために頂いている薬(睡眠薬は禁忌の薬なのでかゆみ止め)を飲んで
寝ましたが中々寝付けません。
いつも泊まるスイートルームが一つ空いていたのでそこに泊まりましたが
隣りの夫も中々寝付けないようでした。
夫が手を握っていてくれたので少し安心できたのか、いつしか眠りに。
朝、姉からがあり斎場とお寺さんの都合でお葬式は数日後になりそうだと聞き
とりあえず私たちはいったん帰ることになりました。
間に合わなかったのは残念でしたが、穏やかな顔でベッドに横たわっている兄を
見ることが出来たので気持ちも少し和んで。
帰りは夫と一緒だし、途中座ることが出来たので少し楽になり何とか家に辿り着きました。
その日は家でゆっくりして6時過ぎには二人とも寝てしまいました。
びっくりするくらい寝ていたようで・・今朝6時に目覚めて早速を入れたら葬儀の日にちが
きまったと聞かされました。
たまたま私の通院の日でどうしようか迷いましたが姉も無理しないでいいと、それに夫が
代表して行ってくると言ってくれました。
私の通院に付き添うため休みを取っていたのです。
長男も出たいと言いましたが夏にまたお墓詣りに出かける時にでも行こうと話し合って納得。
わが実家のお墓は実はただ一人の男である兄が後継者で、兄夫婦には子供がいませんでした。
でもいつも二人で寄り添って仲のいい夫婦でした。
義姉もお墓を引き継ぎたくないとの意思があって兄も実家のお墓には入らないのだそうです。
二人でいろいろ話し合っていたのでしょう。
離檀も含めお寺さんのことは改めて話し合うことにしました。
私たち姉妹は一人残された義姉にとって楽な方法が一番と考えているのでその気持ちを
尊重したいと思っています。
我が実家のお墓は昔料亭をしていたのでいろいろな人の遺骨が入っていますがお寺もいろいろ
難しい問題があって簡単には解決しなそうですが・・・
兄・・・享年71才でした。
奇しくも3・11が命日になってしまいました。
その日の夕方でした。
職場にいる夫からが掛かってきました。
「今埼玉の〇〇恵さん(私の姉)から私にがあって〇〇さんの様態が
急変した、でもあなたには知らせないでと言われたけどそうもいかないだろうと
思ったのでをした」のだと。
これから二人で病院に駆けつけようというでした。
それからあわてて家の中を見まわってバックに必要な荷物を詰めて
夫と待ち合わせをした品川へと・・・家を出ました。
大事な薬とお金とちょっとの着替えを入れて出ましたがなにを入れたらよいのか
動揺して頭が回りませんでした。
少し体調が悪かったのですがそんなこと言ってられません。
電車に乗って~姉に「これから行きます」とメールを入れたら
折り返し「少し前に亡くなった」のメールが入って。
姉たちも間に合わなかったそうです。
今日はとりあえず来なくていいかもと言われましたがこのまま行くことにしました。
たまたま退社時間後の時間帯です、品川~大変な混み方でした。
夫と連れ立って京浜東北、高崎線と乗り継いで行きましたが途中から
立っていられないほど具合が悪くなってしまいました。
心労、ストレスが体にいかに影響を及ぼすか痛感していましたがとにかく
病院へ行くことだけで必死でした。
途中何度もメールをしあい「病院を8時に出発することになった」というメールに間に合うかと
ヒヤヒヤしながら…下車駅に着いたのが7時40分でした。
駅には姉と姪っ子が車で迎えに来てくれたので何とか間に合いました。
まだ病室のベッドに横たわっていた兄の顔を見るなり・・・号泣してしまいました。
既に姉や義兄たちが集まっていて「間に合ってよかったね」と声をかけてもらいました。
そのまま霊柩車で斎場へ向かうことになり、3台の車列で・・・
途中、義姉から昨日は帰りにはまた明日ねって元気に別れたのよ、今日もお寿司を少し食べて
でもそれが最後で急変して、こんなに急にとは思っていなかったと聞きました。
そんなことで義姉もどうしてよいか分からないと・・・とりあえず地元の姉が積立をしていた
斎場へを入れ受け入れてもらったそうです。
斎場では遅いので細かいことは翌朝話し合うことになりいったん家族は帰ることに。
それぞれ姉から家に泊まるようにと誘いもありましたが私たち夫婦は墓参の時いつも宿泊
しているホテルに予約を入れましたので、遅い夕食を食べてから姪の車で
熊谷のホテルまで乗せてもらい落ち着いたのが12時前でした。
お風呂に入ってベッドに入っても気持ちが高ぶっていて中々寝付けません。
自己免疫疾疾患はストレスを感じると症状が悪化してしまうのです。
動悸が凄いのは興奮しているからだと思いながらとにかく体調が悪くなって全身が
いつもの様子ではなくなり、もしかしたら病院のお世話になってしまうのかと心配でした。
こんな時のために頂いている薬(睡眠薬は禁忌の薬なのでかゆみ止め)を飲んで
寝ましたが中々寝付けません。
いつも泊まるスイートルームが一つ空いていたのでそこに泊まりましたが
隣りの夫も中々寝付けないようでした。
夫が手を握っていてくれたので少し安心できたのか、いつしか眠りに。
朝、姉からがあり斎場とお寺さんの都合でお葬式は数日後になりそうだと聞き
とりあえず私たちはいったん帰ることになりました。
間に合わなかったのは残念でしたが、穏やかな顔でベッドに横たわっている兄を
見ることが出来たので気持ちも少し和んで。
帰りは夫と一緒だし、途中座ることが出来たので少し楽になり何とか家に辿り着きました。
その日は家でゆっくりして6時過ぎには二人とも寝てしまいました。
びっくりするくらい寝ていたようで・・今朝6時に目覚めて早速を入れたら葬儀の日にちが
きまったと聞かされました。
たまたま私の通院の日でどうしようか迷いましたが姉も無理しないでいいと、それに夫が
代表して行ってくると言ってくれました。
私の通院に付き添うため休みを取っていたのです。
長男も出たいと言いましたが夏にまたお墓詣りに出かける時にでも行こうと話し合って納得。
わが実家のお墓は実はただ一人の男である兄が後継者で、兄夫婦には子供がいませんでした。
でもいつも二人で寄り添って仲のいい夫婦でした。
義姉もお墓を引き継ぎたくないとの意思があって兄も実家のお墓には入らないのだそうです。
二人でいろいろ話し合っていたのでしょう。
離檀も含めお寺さんのことは改めて話し合うことにしました。
私たち姉妹は一人残された義姉にとって楽な方法が一番と考えているのでその気持ちを
尊重したいと思っています。
我が実家のお墓は昔料亭をしていたのでいろいろな人の遺骨が入っていますがお寺もいろいろ
難しい問題があって簡単には解決しなそうですが・・・
兄・・・享年71才でした。
奇しくも3・11が命日になってしまいました。
2016-03-13 16:01
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